支離滅裂でごめんなさい……。
「ある感情を抱く」のと、「自分の抱いた感情を表明する」のは、全く違うことですよね。
「怒るな、悲しむな、傷つくな」と言われても困りますよ。怒りたくて怒るわけでも、悲しみたくて悲しむわけでも、傷つきたくて傷つくわけでも、ないんだから。
感情の発生、そのものを否定することは、そこに生きている人を否定することだと思う。
同じことに遭遇したときに、その人の心に生まれる感情が、一生ずっと同じだとは言いませんよ。むかし傷ついていたことに、傷つかなくなることだってできると思う。でも一朝一夕にはいかないし、すでについた傷を無かったことにすることはできない。
(まあ、傷つきやすい人はネットに深入りしないほうがいいよねとは思います。でも、5年前ならそれで済んだけど、今はそれもあんまり現実的でもないんじゃないかなぁ)
だけど、傷ついたときに、「私は傷つきました」と表明するかどうかは、頭で考えて選べるはずのこと。面と向かっての会話ならともかく、文字を打ち込んで反映させるというワンクッションのあるネットの世界であれば、なおさらのことです。
だから、「自分がある感情を抱いた」と表明する行為は、たいていの場合、「その人間がそのような感情を抱いた」という事実の伝達では終わらない。
「傷つきました」と表明するかしないかを検討して、表明するほうを選んだという、その選択自体が意味を持つから。
「自分が傷ついたとわざわざ伝えることで、相手に何らかのリアクション(謝罪、反省、etc)を期待している」と受け取られても仕方がない、というか、そう受け止めて当然だと思います。たとえそんな気が、書き手にはなかったとしても。
どうも、ネットが媒介になった際に、このへんの認識がごちゃごちゃになっちゃってるんじゃないかなあ、と思うのです。書き手も読み手も。
自分の行為と他人の行為が無意識のうちにダブルスタンダードをなしている、と言いかえてもいい。
上司や先輩への愚痴を、面と向かってその上司や先輩に言う人はあんまりいないでしょ。言っちゃったらそれは愚痴じゃなくて、苦情です。
でも、ネットで「怒っている」「悲しんでいる」「傷ついた」と書くことは、当人に面と向かって愚痴を言っているに等しい、少なくとも相手に聞こえていることがわかっている場所で愚痴を言う行為に等しいはずなんだけど、それ、わかってんのかなあと思います。個人のサイトだろうが2chだろうが、アクセス制限かかってない場所なら、どこで呟いてもこの点は同じですね(もちろん差異はあるけれども)。
「作家さんの本音を教えてください」なんて匿名アンケート、いろんなところで見かけます。『本音を教えて』とあるから、書き手の中には本当に正直な本音、「自分の抱く感情」を素直に答える人もいるでしょう。
でもそのアンケートは公開されてて、誰でも結果が見られる。見る人(特に、書き手ではない人々)は、そこに表示されている結果は「書き手が、読み手に見られることを承知の上で、表明することを選んだ」本音だと受け止める。そして、「この感情を表明することで、書き手はこのような要求を自分に突きつけているのだ」と感じてしまうんじゃないでしょうか。しかも、アンケートって形式が曲者で、そのアンケートを目にした一部の書き手の中の、更に一部の意見のはずが、まるで全書き手の本音の代弁のように思えてしまう。
まったく逆に、読み手の本音アンケートに、読み手は本音を書き込み、書き手はそれを読んで読み手から要求を突きつけられていると感じる、そういうこともあるでしょう。
そして、アンケート結果が自分に要求している(と思った)内容が理不尽だと感じた人が、反発して、その反発を表明する。ところがアンケートに答えた人間は、答えたことで閲覧者に要求を突きつけたという意識が薄い。だから、その反発を自分の本音すなわち自分の人間性そのものの否定と受け取って、どっぷり落ち込んだり、烈火のごとく怒ったりする。そしてその感情をどこかに書き込み、……以下、ずぶずぶと泥沼へ。
私自身も含めて、精神的に未熟な人間が多いコミュニティなんだ、と定義してしまえばそれでおしまいかもしれないけれど。
自分がどっぷり漬かっているコミュニティなので、できるなら、少しでも良い方向に向かって欲しい。そのためにできることがあるなら、したいと思っています。
どういうことができるのか、そもそも私に何かができるものなのか、結論は出ていません。そもそも、私の思う「良い方向」が、他の人にとっても「良い方向」かどうかも、わからない。
でも、「発言することは他人にリアクションを求めること」だし、その裏返しとして「発言されなければ誰にも伝わらない」のだから。
とりあえず、言ってみます。
自分に酔ってんじゃねーよ、という突っ込みが来そうなので(笑)先に自分で突っ込んでおきつつ。
以前、ある問題に関わっていたときに、「思っていることを書いてなにが悪い」と言われたことがあります。直接にではないけれども。
その発言は、「人を傷つけることのなにが悪い」という発言に等しいと思います。
悪くない、と思うなら、そう思えばいいでしょう。それは個人の自由だし、その自由を阻害する権利なんて私にはない。阻害しているつもりもないし、そもそもそんな力はありません。
ただ、私は、自分はできるだけ人を傷つけたくないし、人を傷つける人も傷つけられる人も増えてほしくないと思っている。そのための方法のひとつとして、どうか発言には気をつけて欲しい、とお願いしています。
それもまた、私個人の自由ですよね。
私のお願いを無視するのも、人にそんなお願いをすることは間違っていると考えるのも、私が頭の悪い馬鹿だと思うのも、それは読む人の自由。その気持ちを私にぶつけるのも、その人の自由です。
そして、これらの自由には、いつだって責任が伴うのです。
こんにちは。コメントありがとうございます。
>> 感情は自分の受動体、理性は能動体
なるほど、そうですね! とてもわかりやすい言い方だと思いました。
責任の有無も、たしかに人それぞれですね。自由というのは難しい言葉だと思います。
近頃同じような事を感じていましたので、いたく共感しながら読ませていただきました。
感情を抱くのは当たり前、しかしそれを文字として意思として表すかどうかの余裕は与えられている訳で。そこで言っていい事悪い事、その判断をしっかりできるかどうかが「自分という人間の評価」の分かれ目なんじゃないかと思いますね。これは現実でも当てはまるんじゃないかなあ。
>どうも、ネットが媒介になった際に、このへんの認識がごちゃごちゃになっちゃってるんじゃないかなあ、と思うのです。
強く同意。また、最近はウェブログの爆発的な増加により、その辺が更に曖昧になってる気がしますね。極端な話ブログ利用者のほとんどの人は「感情」と「表明」を分けてないんじゃないかなあ、とか。それが良い点か悪い点かはともかく、周りへの影響を考えて表明できるようになりたいですね。思考する時間はいくらでもあるのだから。
こんにちは。コメントありがとうございます。共感していただけたのこと、嬉しいです。
ブログの流行などでネット発信は本当に気軽になりましたよね。日記やエッセイ的な文章では、多方面に気を使って書いた文章よりも素のままの言葉のほうが人気が出る傾向にあるように思います。それもまたネットの良さではありますが、「わざわざ人に読ませるための場所に書いているのだ」という自覚はあってほしいものですね。
本件、たまたま目にさせていただきました。
ちょっと思うところがありますので、発言させていただきます。
言葉も、文章も。本もWEBも会話もミーティングも。
コミュニケーションツールとしては、言葉も文章も全く同じものです。
違うのは、それらツールの使い方。
そして、使い方は、人それぞれ違うのではないですか。
理性も感情も、どこでボーダーラインを引くかは、人それぞれです。
コミュニティとは、「人のあつまり」。つまり、多種多様な情報のあつまり。
なればこそ、「善悪」など、無いものではないでしょうか?
文月さんが、ご自身の属されているコミュニティを愛しているのは、よくわかりました。
愛ゆえに、間違っているとご自身が思う方向には、行ってほしくないという気持ちも、よくわかります。
(作品を拝読した時も、キャラクターに対する愛を感じましたが、同じようなものですね)。
時代が変わるように、人の意識も移り変わります。
なるようになってゆくものではないでしょうか。誰が何をすることもなく。なるようにしか、ならないんですから。
こんにちは。ご意見ありがとうございます。
コミュニティには「善悪」などないのでは、とお書きですが、私はやはりあるのではないかと思っています。ただ、それを測る物差しが、人によって違うのだと思います。
それぞれ違う人の集まりであるからこそ、その物差しをすり合わせていく作業も生まれてくるのではないでしょうか。もちろん、その必要がないと考える人もいるでしょうが、私はすり合わせをしていきたいと考えている人間です。
おっしゃるとおり、人の意識も移り変わります。ですが、その変化もまた人が作るものではないでしょうか? 多くの人間の行動が、積もり積もって時代を変え、人の意識を変えるのではないでしょうか?
少なくとも私は、人の意見に触れて自分の考えを改めることが、よくあります。もちろん、人の意見を聞くことで、改めて自分はそうは思わない、と確認することもよくありますけれども。
自分の意見ひとつで人の考え方を変えられる、などと傲慢なことを言うつもりはありませんが、積みあがる小石のひとつになる可能性くらいは捨てたくないな、と思っています。